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剣道について3

今回はまず剣道の審査の内容やそれに関することについて記す。

 

前回書いた通り剣道には級と段がある(称号というのもある)。級と段は様々な異なる点があるが審査内容もまた異なっている。

まず級審査では木刀による剣道基本技稽古法というものを行う。


木刀による剣道基本技稽古法(公開演武)Keiko-Ho with Bokuto(Demonstration)

 

団体にもよるかもしれないがこの木刀による剣道基本技稽古法が導入されたのは6年ほど前である。調布市剣道連盟ではそれ以前は切り返しという基本の稽古を木刀ではなく竹刀でやっていた。また級審査ではその後面をつけ試合形式の試験を行う。これは相手から一本をとるのが目的ではなく正しく三位一体で打てているかなどの基本に忠実かどうかを問う試験である。この二つを行い、審査員が級をとるに値するかどうかを判断し結果が出るという形になっている。

 

次は段審査だがこれは大きく分けて三つの審査がある。一つ目は学科試験といって、事前に出された三つほどの題に対する答えあるいはレポートを書き、当日提出するというものである。学科試験ではあるが事前に題が出され書いてきたものを提出するだけなのである意味試験を受けるために提出する書類のようなものである。

次に当日の試験は試合形式のものと日本剣道形の二つを持って行われる。試合形式のものは級審査や初段、二段等やることは変わらないが当たり前だが審査の目はより厳格になっていく。また試合内容だけでなく所作や身だしなみ、立ち振る舞い等々全体をみて審査されるようになっている。

上記のものを合格すると晴れて二次試験とも言える日本剣道形の審査になる


日本剣道形(公開演武)Nippon Kendo Kata(Demonstration)

 

上の動画とは違い審査は木刀で行う。初段では一本目から三本目まで二段では一本目から五本目まで三段では一本目から七本目までとなる。四段からは小太刀という短いものを使った日本剣道形で審査される。この審査に関しても所作等を見られるが剣道形は足をどちらが先に動き出すかから出す順番など決まっているのでまずこれを覚え守らなければ審査に受かることができない。この二つをもってして当日の試験は終わり、(一から三段は)その日に合格発表が行われる。

 

このように段というものは試合と同様、あるいはそれ以上に厳しいもので試合だけでなくある時は段審査に向けて練習を重ねるのが肝心である。

剣道について2

前回同様剣道について記す。

 

多くの人が知っているサッカーや野球など大抵のスポーツにおいて、練習というものは試合を行うため、勝つために、それに向けて積み重ねていくものだと私は思う。もちろん剣道も試合に向けて練習を重ねるというのは行う。だが、剣道の練習はそれだけではない。もちろん精神面での鍛錬も、と言えるがこれは大抵のスポーツの練習でも鍛えることができるのでことさら剣道を強調するようなことでもない。

 

剣道には試合とは別に段審査というものがある。これは剣道には段位という階級のようなものがあるためだ。

www.kendo.or.jp

 

上のURLにあるように今から取れる段位は初~八段までだが過去9,10段というものがあり特に10段は史上5人しか取得できていない。

また段の下に級というものがあり級は一応は1~3級にはなっているが地方の連盟においてその下が設定されていることもある(ちなみに調布市では10級からある)。

段位の取得は一級を取得してから初段、二段と一つずつ積み重ねてあげていくものである(例外も存在する)。だが審査のたびに合格すればどんどん上げていけるものかというとそうではない。二段は初段取得後一年たたないと受検資格が得られない、三段は二段取得後二年以上、と段位が上がるたびにどんどん時間が伸びていきます。そして当たり前ですが審査も審査員が増え、審査の基準自体もどんどん厳しいものになっていくため段位が上の人ほど結構な年になることが多い。

 

また段位と完全に別というわけではないが称号という3つのものがある。「錬士・教士・範士」の三つである。これらは特定の段位をとってから一定以上の年数を経て、さらに教士・範士はそれぞれ錬士・教士をとってから一定以上の年数を経てようやく受検資格が得られるものである。範士全日本剣道連盟によって段位制度の最上位に位置するものと決められている。

 

このように段位制度や称号が定められていて試合に勝つことを目標にするのと別に段位を取得することを目標にできる。段位は試合に比べてセンス等があまり絡まないため努力が結果となりやすい。

 

具体的な審査内容や日々の練習の一例等を次回記す。

剣道について1

今回から何個かに分けて剣道について記す。

今回は武道、競技としてのルール等をレポートする。

 

まず剣道のルールは以下のurlに詳細がある

www.kendo.or.jp

 

箇条書きでまとめると

・試合場は9~11メートルの正方形または長方形

・竹刀(選手のもつ棒)は竹かそれに代わる化学製品とする。重さ長さも規定がある

・恰好は剣道着に袴、面、小手、胴を必ずつける

・試合の勝敗は面、小手、胴、突きの打突部位を声を出し体全体で姿勢よく打ち終わりまで正しくでき、審判三人のうち二人以上が旗を揚げた場合に一本を獲得し、二本先取したものの勝利である。引き分けの場合延長となり一本取るまで3分区切りで延々と続けられる

 

以下の動画は試合の例である。


Ippons Round3-Final Ippons - 64th All Japan Kendo Championship 2016

 

 

なおこのルールは高校生以上の公式大会のルールで市民大会などでは試合時間が異なったり、中学生以下では突きは反則であるなど微小の差異はある。

 

剣道の特徴としては審判が絶対であるということだ。テニスやバレーボールのチャレンジのような異議を申し立てるという権利がそもそもない。どんなに外れていようが審判が一本といえば一本でどんなに会心の打突ができても審判が一本だとみなさなければ意味がない。誤解を招きかねないが審判へのアピール(わかりやすい打ち、気勢を大きくするなど)もある意味必要になってくる。

しかしその一方で剣道とは武道であり、礼に始まり礼に終わる。試合開始まえと後では礼をするのはよく見る光景で、逆に例えば一本を取った後にガッツポーズをするとその一本は取り消される。スポーツでもあるが武道でもある。前記の全日本剣道連盟のページの最初の規則は“この規則は、全日本剣道連盟の剣道試合につき、剣の理法を全うしつつ、公明正大に試合をし、適正公平に審判することを目的とする。”である。後ろ暗い所なくお互いが正々堂々と試合をすることが規則の目的となっている。勝ち負けの前に礼節というスポーツとはちがったものである。

 

試合のルール等について記したが剣道には他にも練習(鍛錬)の成果を発揮する場がある。次のレポートではそれについて記述する。

 

湊かなえ「告白」を読んで

湊かなえ作の「告白」を読んでの感想や紹介等を記す。

 

この作品は2008年に単行本出版され、本屋大賞等の賞を獲得し、コミック版や映画として全国ロードショーされるなどした作品である。

この作家の作品で他にも「少女」や「贖罪」など5作品ほど映画化されている。

 

 

まず、この作品のあらすじだが、とある学校の敷地内部でそこに勤める教師の子供が亡くなってしまい事故死と断定される。そして作品の冒頭、第一章で本のタイトル通りその教師による告白が始まる。という内容だ。この作品は章で分かれていて各章ごとに視点主(語り部)が異なり、様々な立場からの主観的な目線や思考、つまり何を思いどう行動し何を感じたかを子細に書かれる。客観的に、あるいは常識的に見れば間違っている事自分に都合の良い解釈等もすんなりと書き語られている。

 

 

第一章では前記の通り教師の告白である。彼女の子供が死んだこと、シングルマザーの理由、夫の話、そして事件の真相とそれに関わる復讐について書かれている。

第一章として舞台設定や事件や人間関係等について書かれていて何気ないようなものも後の伏線が張られていたり視点主の人間性が分かるようになっていたりと細部にまで拘っているなと感じた。

 

第二章はその教師の教え子による告白後のクラス内や人間関係について語られている。教師が変わり、告白や復讐を引き金に始まったいじめや人間関係の変化その顛末について記されている。

 

第三章では犯人の内の一人の身内による犯人とその母親の告白後について日記調で犯人の母親視点で語られている。第二章の一部の裏側、種明かしと感じた。

 

第四章では第三章の犯人の内の一人の視点で告白前、そして事件が起こる前から起こるまでや告白後についての顛末が語られている。この章は特に章に分かれ語り部の視点になっている事が機能しているなと感じた。

 

第五章では犯人の残り一人で首謀者である人物の視点で語られている。この章は視点主の生まれから動機や第二章などの後のことがまとめて語られている。物語のある意味締めへ向かい第六章で全て占められる。

 

この作品を読んでの最初の感想はあまりすっきりしない終わりということだ。不可解なこともないしきっちりと占められているがこの気持ちを持つのは個人の嗜好、つまりは嫌な思いをしたというわけではないが後味が悪いような終わりであったからだと思った。

作品の出来は非常に良いというのが僕の感想で紹介である。

 

 

ドローンとドローンによる配達について

 

つい最近離島への日用品運送の実験が行われたドローンについて、まず混同されがちなラジコンとドローンの違いについて書く。

 

ラジコンとドローンの違いは人が操作するか否かである。ラジコンはコントローラーの信号を受信しその通りに、逆に言えばその通りにしか動かないが、ドローンはGPSの位置情報等をもとに無人でコンピューター制御によって動くものである。複数のプロペラを持ったラジコンをドローンと一時期呼称されていたが大きな間違いであると考える。

産経新聞10月27日の記事では規制に触れない範囲での実績の積み重ねが課題だと書いてあるがそもそも国土交通省によって許可・承認がない限り無人飛行機は

・日中に

・目視の範囲内で

・人や物件から30M以上離れて

・祭りなど人が集まる催しを避け

・危険物を持たず

・物を投下しない

というルールがある。

また空港等の周辺や人口集中地区上空、150M以上の空域は事前の許可が必要となる。少し前にカメラ付きのドローン(ラジコンヘリコプター)を行事を行っている真っただ中に落とし話題になったのもルールにある、祭りなど人の集まる催しを避けずにしかもけが人が出なかったとはいえドローン(ラジコンヘリコプター)を落下させているのは立派なルール違反ということだ。

www.mlit.go.jp

 

話を戻すとドローンでの配達の計画はgoogleamazonピザハットでも発表されている。

しかし現在のところドローンはまず雨や風などの悪天候に弱い。ドローン本体が飛ぶために軽いため、またそれに伴い馬力がそれほど高くないため強風に弱く、運ぶとなるとやはり外に出ることになるのでどうしても不意の天候の変化や最近増えてきたゲリラ豪雨に非常に弱い。墜落等の危険性が高まる。

バッテリーの問題もある。産経新聞10月27日の記事では1.7㎏を積んで10分の飛行だったが市販されているドローンは飛行時間が10~30分になっていて物を積むとさらに短くなる。

 

このように短所や問題点あるが、それは進歩の余地とも言える。技術もそうだがルール等の整備も非常に重要と私は考える

読書レポート「ダイイング・アイ」

東野圭吾作のダイイング・アイを読んでの感想紹介等を記していく。

まず手に取った理由として理系でエンジニアであった東野圭吾さんの作品は前々から読んでいて出てからそれなりに時間はたっているが目についたからだ。

小説やTVドラマにもなった所謂、探偵ガリレオシリーズを書いた人といえば聞こえはいいと思う。

 

さて今回紹介するダイイング・アイは上記の探偵ガリレオシリーズのような科学を主軸にしているミステリーではなく、突飛なとまではいかないまでもすこし不思議なホラーじみたミステリー小説となっている。

あらすじとしては、誰かに襲われ記憶をなくした視点主(主人公)が無くした記憶や自分を襲った犯人を探っていくうちに欠けた記憶に関することや周りの人間の不穏な動きに翻弄されていきながらも、記憶の手がかりや事件について、犯人について調べていくというものになっている。

 

題名にあるように眼がキーワードではあるが、わかりやすく頻繁に出るというわけではなく要所に散りばめてあるという印象をうけた。個人的には同じ言葉をこれでもかと前面に出されるのはあまり好きではないので、こういった本は交換を持てストレスなく読むことができた。

最後まで読んでまず思ったのが殺人事件が起こっている以上ハッピーエンドはありえないが、終わりがSFチックであったせいか微妙にしこりが残る読了感であった。また初めに書いてある事件の顛末のようなモノの何気ない描写のようなものが伏線であったのにはよくある手ではあるが細やかで好感が持てた。

 

感想文(レポート)を書く上で一度だけでは不足だろうともう一度頭から一気に読み直して改めて思ったのが冒頭で書いた通りこの本はすべてが解明されている科学の分野や現実世界で説明できるものではないSFのような要素が含まれている。だがその要素を排したとしても事件のトリックなどは現実世界においても納得できるものであり、謎を全て超常現象で解決するのではないと思った。

 

難解な文章でもないので興味があれば手に取ることをお勧めする。

双子についてのレポート

まず、なぜ双子についてのレポート書こうとしたかだが、私が双子だからだ。

私にとっては当然のことが双子ではない他の人にとっては分からないことである。

ひどく苦労したということはそれほどないが、傷つくこともあったのでこちらから発信することで自分や他の双子の人と双子では無い人双方が傷つくことが少なくなればという思いも込めて書いていく。

 

最初に生まれるまでについてだが、双子には種類が二種類存在するのだ。それは一卵性と二卵性である。

そもそも双子というのは正式には双生児というのだ。そして一卵性双生児と二卵性双生児があるのだが、その違いは受精の段階から違っている。二卵性は排卵剤等の影響で二つ同時に受精して二つ同時に着床してできる。逆に一卵性は受精の段階では通常と変わらず一つだけ受精し着床するのだが、受精卵の段階でかなり低い確率で二つに分かれる。このように一卵性と二卵性は人の形になる前に決まっているのである。

 

こうして一卵性も二卵性も二人同時に妊娠し、出産へと至るのだがここでよく質問されることに関連することが出てくる。それは先に生まれた子と後に生まれた子のどちらが上かということだ。双子ということをいうと「どちらが上?」とよく聞かれた。法律では明治初期に先に生まれた方が上と定められていたが、それ以前では後に生まれた方が上とする風習があり、小学生の頃の担任とは軽い齟齬が生まれてしまったのである。そもそも双子について何かきっかけがない限り調べ無いのもおかしくないので、上下があることも知らない人も少なくなかった。

 

次にこれまで生きてきてよく質問されたことを経験則をまじえて書く。まず「行動や言動がシンクロするか」という質問をよくされたが、これに対する答えは「するときもあるが双子が直接的原因ではない」だ。双子なので大抵同じような生活や経験をするので行動や言動が近づくが、それは同じような生活や経験をするからであって双子は間接的原因でしかないと考える。今は大学生となり夜間学生と昼間学生で生活時間帯やバイトなども違う中でそうシンクロすることはなくなった。

よくされた質問で「同じ人を好きになるか」というのもよく訊かれたが、答えは「ならない」である。一目ぼれというの自分たちはしない人なので一目ぼれに関してはわからないが、好きになるというのは交流によって積み重なっていくものであると考える。クラスが違えば環境が違う。ゆえに上記したシンクロするかというのと同じように双子でも異なっていくのだと考える。

 

最後に、自分の考えでしかないが双子は似ているとはいえ別人だ。似ていると言うのも間違えるのも仕方がないが同一視するのは個人の尊厳を損なう行為であると考える。難しいかもしれないが双子をセットではなく個人個人で見てほしいと私は考える。